湯けむり巡る九州横断記

別府 9 章 / 22 枚

桜のつぼみがほころび始める三月、ひとりで九州を横断しました。城下町・熊本から阿蘇の大草原を抜け、くじゅうの高原を経て湯布院の金鱗湖、温泉湯けむりの別府、そして大分の現代アートまで。火山が刻んだ大地と、その恵みである温泉、長い時間をかけて積み上げられた人の営み。九州の地熱が、旅のあいだじゅう私の足元に響いていました。

成趣園、水と松のはじまり

2025-03-21 13:30 – 13:35

旅のはじまりは熊本・水前寺成趣園。寛永十三年(1636)に細川忠利が築いた池泉回遊式庭園で、東海道五十三次を模した築山の連なりが知られます。園内の出水神社には、江戸の細川邸から移したと伝わる五葉の松が枝を張り、苔むした石橋の下を錦鯉がゆっくりと泳ぎます。阿蘇の伏流水が湧く池の透明度に、一日目の旅心がやわらかく洗われていきました。

熊本城、よみがえる武者返し

2025-03-21 15:10 – 15:18

午後は熊本城へ。慶長十二年(1607)に加藤清正が完成させた名城で、扇の勾配と呼ばれる急峻な石垣「武者返し」は日本三名城に数えられる威容です。2016年の熊本地震で大きな被害を受けましたが、復旧工事は段階的に進み、漆黒の大天守が再び青空に立ち上がっていました。坂を登るほど石垣の角度が増し、加藤清正が込めた防御思想を肌で感じます。

大観峰、阿蘇カルデラの稜線

2025-03-22 11:46 – 11:58

翌日は阿蘇外輪山の北端、大観峰へ。標高936m、世界最大級と称される阿蘇カルデラ(東西18km・南北25km)を一望する展望台で、眼下に広がるのは数十万年の噴火が刻んだ巨大な窪地です。風になびく茅の海の向こう、阿蘇五岳が涅槃像のごとく横たわります。地殻の薄い場所で大地が呼吸している―そう実感させる、九州随一のパノラマでした。

くじゅう高原、早春の枯野

2025-03-23 10:01 – 10:09

三日目はくじゅう連山の麓、飯田高原へ。九重連山は千m級の火山が連なる九州本土最高峰群で、ラムサール条約に登録されたタデ原湿原を抱える野焼きの草原です。三月下旬、まだ枯草色のすすき原が地平まで続き、なだらかな円錐形の山がぽつりと佇んでいました。芽吹き前の静かな高原に、火山が育てた草地の広がりだけが、淡々と春を待っています。

湯布院、湯の坪と石畳の路地

2025-03-23 13:21 – 13:24

昼下がり、湯布院の湯の坪街道へ。由布岳(標高1583m)の南麓に開けた温泉地で、大正期から芸術家や文化人を惹きつけ、現在は年間四百万人が訪れる人気の保養地です。街道沿いには石造りの小さなショップが連なり、つる草を絡めた屋根や、清流に沿った散策路が続きます。観光地の喧噪のなかにも、水のせせらぎが静けさを保っているのが、この町の不思議な魅力でした。

金鱗湖、夕暮れの灯火

2025-03-23 18:15 – 18:16

湯布院のシンボル、金鱗湖で日が落ちるのを待ちます。明治期に儒学者・毛利空桑が、湖面に跳ねる魚の鱗が夕日に金色に光るさまから命名したと伝わる小さな湖。底から温泉と冷泉が湧き、冬の朝霧で知られますが、この日は鏡のように山影と空を写し、湖畔の松明だけが点々と燃えていました。風のない水面に夕焼けがゆっくり溶け、旅の疲れが一緒に静まっていきます。

血の池地獄、赤泥の沸騰

2025-03-24 11:32

四日目は別府八湯地獄めぐりへ。血の池地獄は『豊後風土記』にも「赤湯泉」と記された日本最古の天然地獄で、酸化鉄と酸化マグネシウムを含む赤褐色の熱泥が98度で噴き出します。崖の上から見下ろすと、湯気の向こうに鈍く光る朱色の池。古来この赤泥は「血の池軟膏」として皮膚薬に用いられ、いまも売店に並びます。地球が静かに血を流しているような、原始の風景でした。

別府の桜、湯けむりの春

2025-03-24 12:11 – 12:17

地獄めぐりの帰り道、寒緋桜が満開でした。別府は地下に湧く湯量が日本一(毎分八万七千リットル超)で、街の至るところから湯けむりが立ち上る世界有数の温泉地。山際の小さな日本庭園では、白いコブシと紅い寒緋桜、緑の苔がささやかに春を描き、噴泉の硫黄の香りに混じって、ふっと甘い花の匂いが流れてきました。火と水と花。別府の三月は、五感が忙しい季節です。

OPAM、大分の現代美術

2025-03-25 09:53 – 10:22

旅の終わりは大分県立美術館(OPAM)へ。坂茂が設計し2015年に開館したガラスファサードの美術館で、その日は絵本作家ユニット〈ザ・キャビンカンパニー〉の大個展『童堂讃歌』が開催中でした。段ボールや布で組み上げられた巨大な怪獣たちが行進する展示室、双子の少年少女が描かれた大判の原画。火山の旅を締めくくるのは、九州で生まれた創造のエネルギーでした。

火山と湯と城。九州を横断する四日間は、地球の鼓動に耳を澄ます時間でした。湯けむりの向こうに見えたのは、自然と共に生きる人々の知恵と、創造への讃歌。次は地獄蒸しを食べに、もう一度この大地へ。