海峡を渡り、灯りを継ぐ旅

海外 マレーシア・台湾 16 章 / 53 枚

海風と線香、屋台の湯気と提灯の灯り。マレー半島の世界遺産ジョージタウンから、東シナ海を越えて台北・九份・平渓へ。華人の信仰と移民の記憶、亜熱帯の山と海、そして食卓に積み上げられたスパイスと醤の物語を、カメラ片手にひとり歩いた記録です。

干潮のクラン・ジェティ

Day 1 朝

ペナン島ジョージタウンの海岸線、19世紀末から華人移民が築いた水上集落・姓氏橋(クラン・ジェティ)。干潮で剥き出しになった泥地に、流木と漁具の残骸が放射状に伸びています。沖には貨物船。2008年に世界遺産へ登録された旧市街の縁で、私はまだ朝の冷たい海風を受けながら、移民たちが踏みしめてきた板の道に足を置きました。

提灯の下の華人街

Day 1 昼

ジョージタウンの路地は赤い提灯が連なり、奥には潮州系の韓江家廟(1870年建立、潮州會館の祠堂)が静かに佇みます。瓦屋根の唐草、壁画の虎と鳳凰、金色の龍の浮彫。華南から渡ってきた人々が故郷の意匠をそのまま運び込み、熱帯の路地に定着させた。私は香煙の匂いに立ち止まり、文字の意味より先に、その律儀さに頭を下げました。

ニョニャの食卓

Day 1 昼〜夜

海峡植民地で華人男性とマレー人女性の文化が混ざり生まれたプラナカン料理。麺を炒めたチャークイティオウ、漢方香る肉骨茶(バクテー)、清湯仕立ての魚団子スープ、唐辛子で覆われた魚料理。スパイスと醤油、ココナッツが同じ皿で握手しているのがペナンの食卓です。屋台の丸椅子に座り、汗をかきながら、私は二杯目の冷茶を頼みました。

プラナカン邸宅の螺鈿と硝子

Day 1 午後

ジョージタウンに残るプラナカン・マンション。19世紀の華僑富豪・鄭景貴の旧邸を改装した博物館で、螺鈿の椅子、ヴェネツィアン・ミラー、英国製ステンドグラス、ヨーロッパの硝子細工が並びます。中華の祖霊祭壇に英国趣味の調度が同居する不思議な空間。海峡を越える商人だけが持ち得た折衷の美意識を、私はゆっくりと一周しました。

観音廟の喧噪

Day 1 夕方

ペナン最古級の華人寺院・観音亭(1728年創建)の前。屋台と車が混じる広場を、赤い提灯がびっしり覆います。福建移民の航海安全を祈る場として始まり、いまも線香の煙が絶えません。スコールの後の湿った石畳に、廟の朱色がにじむ。私は奉納の渦巻線香を見上げ、ジョージタウンが「生きている世界遺産」と呼ばれる理由を、ようやく腹の底で理解しました。

熱帯雨林の植物園

Day 2 午前

ペナン島中央の熱帯スパイス・ガーデンと植物園を歩きます。シダ類、ヤシ、ヘリコニア、ジンジャーの仲間。湿度の高い空気に、土と樹脂の匂い。茅葺きの門を抜けると小川に飛び石が並び、解説板はスパイス交易の歴史まで遡って書かれていました。マレー半島がかつて「香料の道」の要だったことを、葉の一枚一枚が思い出させます。

ペナンヒルの夜景

Day 2 夜

標高833メートルのペナンヒル。1923年開業のフニキュラに揺られて闇の中を登り、頂上展望台へ。眼下にはジョージタウンの街灯、海峡を渡るペナン大橋の光列、対岸バターワースの工場群が一望できました。海風はまだ生暖かく、ライトは黄色と橙でちかちかと瞬く。山頂駅のホームに座り、私はこの島が「東洋の真珠」と呼ばれた所以を、自分の目で受け取りました。

山城・九份の路地

Day 3 昼

海を渡って台湾。新北市の山あいに張り付く九份(じゅうふん)は、19世紀末のゴールドラッシュで栄えた鉱山町です。石段の路地に商店が軒を寄せ、奥には基隆湾が霞んで見える。山の斜面にトタン屋根が幾重にも積み重なる景色は、宮崎駿作品の連想で語られがち。私は階段の途中で振り返り、この町が湯気と潮風の境目に立っていることを確かめました。

茶藝館の窓辺

Day 3 午後

九份の茶藝館に上がりました。窓を開け放つと、眼下には急斜面の集落、その先に台湾東北の海岸線。卓上には急須と聞香杯、小皿に台湾烏龍茶の茶葉が広げられます。鉄観音の馥郁とした香り、二煎目の柔らかい甘み。観光地化されてなお、ここで茶を喫する作法は丁寧で、私は時計を仕舞い、湯気の向こうの海を眺め続けました。

平渓線・十分の滝

Day 3 夕方

九份から山を越え、平渓線へ。線路と商店街が一体になった十分(シーフェン)の街は、天燈(ランタン)上げで知られます。少し足を延ばすと「台湾のナイアガラ」と呼ばれる十分瀑布。幅40メートルの段瀑が緑の淵に白く落ち、しぶきが樹冠を濡らしていました。錆びた鉄橋、観光客の歓声、轟音。山と水と鉄道が同じ画面に収まる、台湾らしい一枚です。

台北駅の朝

Day 4 朝

台北に戻り、台北車站(台北駅)の正面に立ちました。1989年完成の三代目駅舎は、宮殿様式の屋根を載せた直方体で、台湾鉄路・新幹線・MRTが集まる首都の心臓です。朝の通勤者がロータリーを抜けていく。庶民的な朝食店の油条と豆漿の匂い、構内アナウンス。私は重慶南路の方角へ歩き出しました。台湾の旅の本番は、ここから始まります。

龍山寺、線香の渦

Day 4 午前

台北最古の寺院・艋舺龍山寺は1738年、福建省晋江の移民により創建されました。観音菩薩を主祀し、媽祖や関聖帝君も合わせ祀る台湾道仏混交の象徴。彫刻のびっしり詰まった石柱、屋根棟の交趾陶、煙る線香、絶えず祈る人々。境内には鯉の池と扇風機の列まであって、生活と信仰が同じ床にありました。私は順拝の列に並び、額を低くしました。

忠烈祠、衛兵交代の朱

Day 4 昼

圓山の麓に立つ国民革命忠烈祠は1969年完成、北京の太和殿を模した宮殿様式の祭祀施設です。朱の柱、金の浮彫が辛亥革命や抗日戦の場面を語り、内殿の祭壇は重厚な木彫で飾られていました。隣接する回廊と中庭は静謐で、衛兵の足音だけが響く。中華民国がこの島で守ろうとしたものを、私はここで、教科書ではなく建築として受け取りました。

国立故宮博物院

Day 4 午後

士林の山際に立つ国立故宮博物院。1965年開館、北京・紫禁城から運び出された文物約70万件を収蔵し、ルーヴル・大英・メトロポリタンと並ぶ世界屈指の中華美術コレクションを誇ります。緑瓦の宮殿風本館、第二期増築の城門、広場の青銅鼎。翡翠白菜や肉形石は今日は見送り、私は外観の威容と空気を、まずゆっくり一周しました。

誠品書店と現代芸術

Day 4 夕方

故宮の帰り道、誠品書店に立ち寄りました。1989年創業、台湾文化の象徴ともいえる書店チェーンで、デザイン書と文芸書が等しく光の下に並びます。隣接ギャラリーには色糸と白い革靴で構成された大型インスタレーション。靴と糸が放射状に広がる作品の前で、私はしばし足を止めました。書物と現代美術の境目が低い街、それが台北の良さだと思います。

象山から、台北101の夜

Day 4 夜

信義区の象山ハイキングコースを登り、撮影スポットの巨石へ。眼前に高さ508メートルの台北101が屹立します。2004年完成、当時世界一の超高層ビルで、八つの節を重ねた竹を意匠化した姿。先端の照明が緑から青へと変わるたびに、足元の市街もゆっくり呼吸するように見えました。風はまだ熱を含んでいて、私は汗を拭きながら長くシャッターを切り続けました。

祠の煙と海峡の夕焼け、山城のトタン屋根と摩天楼の夜景。土地は違っても、灯りを絶やさず生きる人々の手つきは似ていました。提灯がまた揺れる。私はもう、この旅の続きを考え始めています。