森の小屋
← 小屋へ戻る
A Tale by the Fire

焚き火は、
消えない

森の小屋の、ある雪の夜の物語。

― 道を外れた者だけが、
この灯りを見つける。

物語を始める ↓
I道を外れて

雪は、音を消す。

蓮(れん)が森に入ったのは、誰にも見つからないためだった。十六歳の冬。鞄も持たず、街灯の終わるところで道を外れ、そのまま木々の奥へ歩いた。足跡は、降りつもる雪がすぐに埋めてくれる。それでいい、と思った。誰の記憶からも、自分の足跡からも、消えてしまえばいい。

家には、もう帰れなかった。期待されて、応えられなくて、見えない天井にずっと頭をぶつけていた。「お前のためを思って」という言葉が、いちばん深いところを刺した。学校では、笑い方を忘れていた。朝、目を覚ますたびに、まだ生きている、とがっかりした。——もう、いいや。そう思ったら、雪の冷たさが、ふしぎと、やさしく感じた。

どれくらい歩いたのか、わからない。指の感覚が消え、まぶたが重くなって、膝から力が抜けていく。ここでいい。横になろう。そう思って空を見上げた、その時だった。

木々の隙間に、ひとつだけ、灯りが漏れていた。

オレンジ色の、あたたかい光。こんな森の奥に、家なんてあるはずがない。幻かもしれない。けれど、凍えた体は、頭より先にその光のほうへ動いていた。最後の力で雪をかき分け、たどり着いたのは、小さな丸太の小屋だった。煙突から、細い煙。窓から、火の色。

扉に手をかける。冷えきった指では、もう叩く力もない。ただ、寄りかかるように押しただけ。——きい、と、扉は内側へ開いた。

II灯り

中には、誰もいなかった。

けれど、暖炉では火が燃えていた。乾いた薪がぱちりとはぜ、火の粉が舞い上がる。部屋の真ん中に、木の椅子がひとつ。そのそばの小卓に、湯気を立てる茶が、一杯。まるで——誰かが、来るのを知っていたかのように。

蓮は崩れるように椅子に座った。火が、凍った頬を溶かしていく。溶けていくのは、雪だけではなかった。張りつめていた何かが、火の熱でゆっくりとほどけ、気づけば、理由もわからないまま、涙がこぼれていた。泣くなんて、ずいぶん久しぶりだった。泣き方も、忘れていたはずなのに。

茶をひと口飲む。甘くて、苦くて、知らない味なのに、なぜか懐かしかった。火を見つめていると、頭の中でずっと鳴っていた責める声が、少しずつ遠ざかっていく。

どれくらい、そうしていただろう。

ふいに、また、扉が鳴った。

IIIもうひとりの客

入ってきたのは、少女だった。

蓮と同じくらいの歳。髪にも肩にも雪を積もらせ、唇は紫色で、その目は——蓮が今朝、洗面所の鏡で見た自分の目と、同じ色をしていた。何も映していない、ガラスのような目。ここではないどこかへ行こうとして、道を外れて、そして灯りに引き寄せられた。それが、ひと目でわかった。同じだ、と。

少女は、蓮を見て、少しだけ驚いたように立ち止まった。それから、何も言わず、暖炉のもう一方の側に座った。いつのまにか、そこにももうひとつ椅子があり、茶が一杯、湯気を立てていた。

火を挟んで、二人。しばらく、誰も口をきかなかった。薪のはぜる音だけが、部屋を満たしていた。

先に口を開いたのは、少女のほうだった。火を見つめたまま、ひとりごとのように。

「……わたし、消えちゃおうと思って、ここまで来たの」

蓮は、息を呑んだ。それは、自分が誰にも言えなかった言葉だった。喉の奥に氷のように張りついて、誰の前でも溶けなかった言葉。

少女——灯里(あかり)は、続けた。学校で、ある日を境に、みんなの目が変わったこと。机に書かれた言葉。笑いながら向けられる、刃のような視線。誰も助けてくれなかったこと。家では「気にしすぎ」と言われ、自分が弱いから悪いのだと思うようになったこと。朝が、いちばん怖かったこと。

「だから、誰もいない場所に行きたかった。わたしがいなくなっても、きっと、誰も……」

言葉が、途切れた。火が、ぱちりと、はぜた。

IV火は、嘘を溶かす

「……俺も」

気づけば、蓮も話していた。火が、嘘を溶かしてしまうみたいに。誰にも言えなかったことが、するすると口からこぼれた。期待に応えられない自分が、いる意味なんてないと思っていたこと。「迷惑をかけている」という思いが、毎朝、体を鉛のように重くしていたこと。本当は、消えたいんじゃなくて、ただ、この苦しさが終わってほしかっただけだということ。

言葉にして初めて、わかった。自分は死にたかったわけじゃない。こんなに苦しいまま生きるのが、無理だっただけだ。

灯里が、顔を上げて、蓮を見た。涙でいっぱいの目で、けれど、まっすぐに。

「……それ、わかる。すごく、わかる」

たった、それだけだった。「わかる」。たった四文字。けれど、その言葉は、蓮がこれまで聞いたどんな励ましよりも、深く、温かく、体の芯にしみた。誰かにわかってもらえた。たったひとり、この世界に、自分と同じ夜を歩いてきた人がいた。それだけのことが、こんなにも——。

二人は、火を挟んで、声をあげて泣いた。子どものように、何もかもを吐き出すように。ずっと、ひとりだと思っていた。自分だけがおかしいのだと思っていた。違った。痛みは、分けあえた。そして、分けあった痛みは、ふしぎと、半分の重さになった。

ひとりじゃ、なかった。
ただ、それだけのことが、
こんなにも、人を生かす。

V灯守

「よく、たどり着いたね」

声は、火のほうから聞こえた。

気づけば、暖炉のそばに、ひとりの老人が立っていた。さっきまで、誰もいなかったはずなのに。深いしわの刻まれた顔に、火の色がやさしく揺れている。手には、古いランタンを提げていた。

「わたしは、灯守(ひもり)。この小屋の、火の番をしている」

老人は、ゆっくりと部屋を見まわした。つられて、二人も見る。すると——気づかなかったが、壁を作る丸太の一本一本が、床板の一枚一枚が、ほのかに、火の色に光っていた。柱も、梁も、椅子も。小屋ぜんぶが、無数の小さな灯りの集まりで、できていた。

「この小屋はね、消えかけた灯りで、できているんだ」と、灯守は言った。「ここに来た者は、みんな、君たちと同じ夜を歩いてきた。もう終わりにしようと、道を外れて、この火にたどり着いた。——そして、朝になると、また歩いて帰っていった。生きるほうへ」

老人は、壁にそっと手を当てた。

「帰るとき、みんな、自分の灯りを、ひとつ、この小屋に置いていく。『次に、凍えてここに来る誰かが、この火で、あたたまれますように』——とね。今、君たちをあたためているこの火は、何百、何千という、君たちの先を歩いた人たちが、置いていった灯りなんだよ」

蓮は、火を見つめた。さっき、この火に救われた。その火が、自分と同じ夜を越えた、見知らぬ誰かの灯りだったなんて。

「あの人たちも、あなたみたいに、苦しかったの……?」と、灯里が、震える声で聞いた。

「ああ。みんな、もう無理だと思っていた。自分なんて、と思っていた。世界でひとりぼっちだと思っていた」灯守は、目を細めて微笑んだ。「でも、ひとつだけ、間違っていた。——終わりにしたかったのは、命じゃなくて、痛みのほうだった。痛みには、終わりがある。命を終えなくても、痛みのほうが、先に、形を変えていく。少しずつ、必ず」

「それを、あの人たちは、朝になって、思い出したんだ。だから、帰った。そしてその灯りが、今、ここにある」

VI夜明け

話しているうちに、窓の外が、藍色からうすい金色へと変わっていった。雪は、いつのまにか止んでいた。夜が、明けようとしていた。

灯守は、提げていたランタンの火を、ふたつの小さなランタンに分けた。そして、ひとつを蓮に、ひとつを灯里に手渡した。手のひらに乗るほどの、小さな灯り。けれど、たしかな熱があった。

「持っておゆき。これは、ここの火を分けたもの。——もし、また心が凍える夜が来たら、これを見るといい。君は、ひとりでこの火にたどり着けた。ということは、君の中には、もう、火をともす力があるということだ」

「また、ここに来てもいい?」と、蓮は聞いた。

灯守は、やさしく笑った。「いつでも。道を外れたなら、また灯りが見える。——でもね、たぶん君たちは、だんだん、自分で自分をあたためられるようになる。そうしたら、いつか、君の灯りを、ここに置きにおいで。次に凍えて来る、誰かのために」

扉を開けると、朝の光が、まぶしいほどに雪原を照らしていた。世界は、昨夜とは別の場所みたいに、白く、しずかに、輝いていた。

蓮と灯里は、振り返った。けれど、そこにもう、小屋はなかった。ただ、雪の上に、二人ぶんの足跡が、来た道のほうへと続いているだけ。手の中の小さなランタンだけが、たしかに、温かかった。

「……行こうか」と、灯里が言った。その目には、もう、あのガラスの色はなかった。

「うん」と、蓮はうなずいた。「行ける気が、する。今日だけは」

「うん。今日だけで、いい」灯里は、少しだけ笑った。久しぶりの、笑い方だった。「また、つらくなったら……連絡、してもいい?」

「……してよ。絶対」

二人は、雪原に、新しい足跡をつけて歩きだした。来たときとは、逆の方向へ。生きるほうへ。朝の光の中を、ランタンを提げて、一歩ずつ。

·焚き火は、消えない

森の奥の小屋では、今夜も、火が燃えている。

誰かが置いていった、小さな灯りの集まりが、ぱちぱちと音を立てて、客を待っている。道を外れ、凍えきって、もう終わりにしようとした、まだ見ぬ誰かのために。

その人が扉を押したとき、火は、こう囁くだろう。

よく、たどり着いたね。
ここで、あたたまっておゆき。
――きみは、ひとりじゃない。

焚き火は、消えない。
だれかが帰るたび、灯りをひとつ、置いていくから。
そして、また、だれかが——きっと、来るから。

― 了。Welcome back to the Hollow.

If tonight is cold for you

もし、いま、あなた自身が同じ夜を歩いているなら。
その痛みには、終わりがあります。
ひとりで抱えないで。

心を軽くする本を読む → 小屋で火にあたる